【サメから考える〇〇 ~メディア論1~】

今回は割とちゃんとした社会学のつもりで書きました。
しかも2本立てです。

サメ好きなら誰もが一度は嫌気がさす、「サメ=人喰い」の偏見。
今回は、「何故サメに関して悪いイメージだけメディアで伝えられるのか」を「社会におけるそもそもメディアとは何か?」という根本に触れながら話していきます。

それを話したうえで、続編では「なぜメディアから伝えられるサメの悪いイメージが簡単に定着してしまうのか」を、社会学で用いられる定説を使って読み解きます。

最初に言っておくと、今回のメディア論は、メディアリテラシーを高める必要性から書いたものです。題材は僕の関心分野であるサメですが、サメ好き以外の方にも是非読んでもらいたいコンテンツにしています。

 

《メディアは「リアル世界」を「情報」にするもの》
そもそもメディアとは何か?メディア史を学ぶための代表的な著書の一冊『現代メディア史』の著者である佐藤卓己氏によれば、メディアは「出来事に意味を付与し体験を知識に変換する伝達媒体」だそうです。

「なんのこっちゃ?」となっているかもしれない方ののために、僕なりの解釈でかみ砕きます。
あくまで僕の個人的な解釈です。

僕たちは、五感を通じて感じる現実世界に生きています。実際の現場にいて目で見るもの、耳で聞こえるもの、触れるもの、食べるもの、あらゆる出来事を体験しています。こうした物理空間で直接感じることができる世界を仮に「リアル世界」と呼びます。

同時に、僕たちは「体験」以外の方法で、あらゆる出来事を知覚します。イタリアに行かなくてもテレビでイタリアの街並みを見ているし、実際の現場にいなくても戦争映画で兵士の断末魔や爆弾の音を聞いています。こうした「リアル世界」ではない出来事を知識(この場合は知覚できる情報全般とします)という、届けやすい、受け取りやすい形にする媒体、それがメディアです。

この定義通りに考えると、僕たちの周りはメディアで溢れています。いわゆるマスメディアとして括られるテレビ、新聞はもちろん、インターネット、書籍、論文もメディアです。フィクションの「出来事」を伝えるという意味では、アニメ、漫画、映画ももちろんメディアです。目の前の「リアル世界」で起きていない性行為を映像という届けやすい形にして伝えるというとらえ方をすれば、アダルトビデオもメディアです。

個人ももちろんメディアになります。例を挙げて説明しましょう。
僕は大学生の時、小笠原諸島でシロワニに出会いました。悪人面ですが温厚で、優雅に泳ぐ美しいサメです。この体験を誰かに話すとき、僕がシロワニに出会ったことが「体験」、僕が「メディア」、僕が話す内容が「知識(情報)」です。
まず「体験」ですが、シロワニに出会った、と言っても、その体験には様々な要素があります。シロワニと僕がいることはもちろん、実際に見た時の私の感動は脳内物質の分泌、それにより見開かれたりうっとりしたりする僕の眼球という形で現れるリアルな現象です。さらに、これはサークルの同期と行った旅行の出来事なので、そこにはサークルの同期の存在もあるし、案内してくれたショップのお姉さんや、「小笠原に来たのでシロワニが見たいです」とFacebookで事前に相談したサメの師匠(と僕が勝手に尊敬している)シャークジャーナリストの沼口さんの存在も体験に含まれます。もっと言えば、出会ったののが何年何月何日の何時何分何秒で、そのポイントの場所はマグロ穴の近くのどこで、その日の水温は何度で・・・、と、体験の中には無限の要素が含まれます。

しかし、僕の口から話が伝えられるとき、その要素は僕というメディア(媒介)を通して加工されます。僕がその情報を大事ではないと思って話さなかったり、そもそも知らないあるいは忘れていたりするからです。あるいは、その体験要素が重要だと思っていても、「今この会話でそこまで伝えるのは不適切」と考えて削る場合もあります。よくある例を挙げれば、「サメの体験を聞かれたから話したけど、あんまり熱くなるとこの人引いちゃうからこのくらいにとどめよう」と、話を「ダイビングしているときにサメと出会った」くらいに小さくしてしまうことは正直あります。この「ダイビングしているときにサメと出会った」が情報です。

 

ここで重要なことは、メディアによって体験が情報に加工される際、必ずメディアの意思が働くことです。佐藤氏の言葉を思い出してください。メディアは「出来事に意味を付与し」ます。意味を与えるのは意思です。リアル世界で起こる「体験」がメディアによって伝えられるとき、伝えられる情報はそのメディアの意思の方向性、範囲、能力で決まります。

《何故サメの悪いイメージばかりメディアが報じるのか》
やっと本題に来ました(笑)
これまで話したことを踏まえて端的に言うと、サメが人喰いの残虐なモンスターというイメージは、リアル世界のサメがメディアの意思によってかなり偏った方向性で加工された結果です。

主要なメディアとして、テレビと映画を取り上げましょう。テレビの意思は「視聴率を上げたい」、映画監督の意思は「興行収入を上げたい」です。サメ好きでも何でもない一般の人をサメを使って引き付けるにはどうしたらいいか。答えは簡単。サメの凶暴な一面や激しく暴れる場面を流しまくることです。サメが肉に噛みつく場面、サーファーが手足を食いちぎられた話、人喰いザメが人を襲う迫力満点のアクションシーン・・・。優雅に泳ぐサメのシーンなんて、一般人にはウケません。いや、ウケるのかもしれませんが、テレビのコンテンツを作る人たちは、私たちと比べて格別に頭がいいわけでも何でもないのです。一般の人と同じく「サメ=人喰い」というイメージしかありませんから、それを使って視聴率の取れるコンテンツがつくれないのかもしれません。サメの種類数や保護の現状、生態系における重要な役割などについても同じ。発信しても金にならないと考えているか、発信するために必要な教養がないのです。結果として、漁師がいわゆる「人喰いザメ」を捕まえる映像や、巨大なサメに人が喰われるショッキングな(あるいはただグロいだけのヘボい)映像ばかりが放送されます。

 

《メディアリテラシーを身に着けるべき本当の理由》
このように、マスメディアは自分の意思の方向性、範囲、能力によって「リアル世界」を「情報」に加工し、発信します。「凶暴なサメ」というイメージの方が売れるという営利団体としての方向性、番組コンテンツになりそうな物という限られた範囲、そしてコンテンツを作る側の知識不足や能力不足。これらが「サメ=人喰い」イメージの発信が止まらない根源ではないかと、今の僕は考えています。しかし、僕はマスメディアを邪悪だとか嘘つきだとか非難するわけではありません。「そういうものだ」と納得してほしいのです。

よく「テレビの偏向報道」とか、「マスコミは真実を伝えるべきだ」なんて批判が飛び交います。もちろんマスメディアが誠実に振る舞うに越したことはないですが、そもそもマスメディアに期待しすぎです。先ほど申し上げたメディアの定義を前提とするなら、マスメディアも自分の意思によって加工された情報を発信します。その意思は、「広告を収入源とする企業」としての意思です。

先ほどのサメ体験談の例をテレビに当てはめるなら、「その情報を大事ではないと思って話さなかった」は番組が間延びしたりコンテンツがごちゃごちゃしないように編集する作業であり、「そもそも知らないあるいは忘れていた」はスタッフやディレクターの無知や視野の狭さに該当します。「『今この会話でそこまで伝えるのは不適切』と考えて削る」は視聴率が落ちたりスポンサーの機嫌を損ねる可能性があるから特定の情報の放送を控えるという印象操作です。

全国に情報を発信している大きい母体だからか、はたまたテレビ局社員が高給取りだからなのか、それとも女子アナウンサーが美人だからなのか、どうもテレビを公正公平な政治・社会をウォッチする機関か何かと勘違いする人が多い気がします。僕はそれは間違いだと思います。個人が会話の中でTPOをわきまえたり、相手が友達か恋人かで話の中身をはしょったり盛ったりするのと同じで、テレビも自分の意思によって情報を加工して発信するのです。

だから、メディアリテラシーと呼ばれる能力が必要なのです。どんなに誠実そうな芸能人が出ている番組でも、どんなに偉大な思想家が書いた本でも、それは「リアル世界」ではなく(※1)、「リアル世界」の一部がパッケージ化されただけの情報です。しかもパッケージの仕方には恣意的な意思が働いています。それでもメディアを使わずに僕たちは生きていけません(※2)。読書もテレビもネットもなしに、生きていけますか?無理だと思います。だから、「メディアが偏った情報しかよこさないのは問題だ」とブー垂れるのではなく、どうやったら上手にメディアと付き合っていけるのか学ぶのです。

メディアリテラシーについて補足すると、メディアリテラシーはパソコン能力じゃないですよ。メディアを主体的に読み解く力です。先の話に関連付けるなら、メディアの背景にある意思が何なのかを判断する力です。ここまではよく言われる話ですが、僕はさらに踏み込んでこう思います。メディアリテラシーは、「メディア」で伝えられる情報のもとになる「リアル世界」に関心を持ち、必要とあらばそれを求める姿勢です。グローバル化によってメディアリテラシーが必要になったなんて話もありますが、むしろ、もとから必要だったメディアリテラシーが、インターネットというテレビよりも新聞よりも多様な意思が働くメディアの登場でその重要度を増したという方が正確でしょう。

長くなったのでいったんここで切ります。

次回の記事でメディアから発信されるサメの悪いイメージがなぜ改善されないままなのかを論じます。

次回も宜しくお願いします。

—————————————————————————-
※1 極論を言ってしまえば、「リアル世界」ですらも相対的である。なぜなら、「リアル世界」は五感を通して感じる物理世界だと述べたが、五感自体がそもそも個々人によって異なる。簡単な例を挙げれば、私の視力とアフリカ狩猟民族の視力は異なるので、同じ「リアル世界」を体験していたとしても違ったメディアとなる。さらに言えば、人間の脳は見えているもの、聞いているものを全て感知しているわけではない。私にはホホジロザメとネズミザメは全く違うサメに見えるが、サメに関心のない人にはその違いが見えない。認識できないので、違いがないのと同じなのである。ただ、私たちはこうした違いを背負って生きていくしかない。

※2 ここで言うメディアは書籍、映画、テレビ、インターネットなどだが、先にも述べた通り、個人もメディアである。つまり、究極的な意味においても、私たちは「メディア無しでは生きられない」のだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です