【サメから考える〇〇 ~ポケモンGO~】

「ポケモンGOはニュースで取り上げられるほど流行っていない云々」なんて話もあり、少し今更感がありますが、書いてみました。

ポケモンGOに関する記事は「ピカチュウ大量発生で〇〇公園に“トレーナー”が集まっている」とか、ゲーム依存や歩きスマホの危険性を論じるものが多いので、今回は少し違う視点からこの社会現象を見てみます。

断っておきますが、僕はポケモンGOを非難したいわけではありません。
世代ごとの共通前提として、ゲームがあっても悪くはないと思っています。

 

【野生のサメと“野生の”ポケモンの違い】
ポケモンGOのプラス面として、従来のゲームと違い、屋外で活動することが挙げられます。ポケモンを探し回ることで運動になったり、引きこもりがちなゲーマーが外出するようになるというものです。また、ポケモンGOをきっかけに新しい友達ができたり昔の友達と再会したりする、なんて話も聞きます。

僕はポケモンGOを実際にプレーしていないので、上記のメリットの真偽は問いません。ですが、ちょっと引っかかったことがあります。

ポケモン好きが公園に集まって「あ!ピカチュウ発見!」、「どこ!?」、「いた!いた!」と興奮して楽しむのと、サメ好きが海とか川(※1)に集まって、「サメだ!」、「どこどこ??」、「いた!」、「可愛い!」と歓喜することの違いは何だろうか。そもそも違いはあるのか?

僕はシステム化されたもの(≒入れ替え可能性)の過剰な広がりを危惧する自称社会学者です。「ポケモンGOはシステム化されたものだから」なんて御託を並べることはできますが、もう少し深く考えてみました。

野生のサメと“野生の”ポケモンの違いについて、お盆に参加したサメキャンプをヒントにして、しっくりくる答えが見えてきました。

 

【自然には“先がある”】
実際の動物とゲームのポケモンの違い。
実際のガールフレンドとゲームのガールフレンドがいて後者に生きがいを求める人がいる時代、こんな質問にも真面目に答える必要があるでしょう。
僕の現在の見解は“先があるかどうか”の違いです。

身も蓋もない言い方かもしれませんが、ポケモンは全てゲームの中で完結し、そのゲーム内で全てがある意味美しくコントロールされています。
システムとして機能する限り、ポケモンは絶滅することなくいくらでも草むらからでてきます。また、バトルで「ひんし」することはあっても、決して死ぬことはありません。ゲーム中に、アーボに食われたコラッタの肉片が肥料になって、そこからナゾノクサが生えている場面なんて見ることはありません(ちょっと見てみたい笑)。

僕がポケモンと並び、あるいはそれ以上に大好きだった育成ゲームに『モンスターファーム』シリーズがあります(僕のお気に入りは2です※2)。このゲームではモンスターに寿命があり、「合体」という方法で、DNAを残す的なこともできます。が、そこはゲーム。死んだモンスターの腐敗臭が臭ってくることもないし、いざとなったらリセットして時を遡り、データを上書きして全てをなかったことにできます。

実際に動物と触れ合う場合、そこにはシステム化されていないがゆえに“先”があります。ここで言う“先”とは、ゲームであれば不都合・不適切・不要という理由で削除される因果の果、行為の延長線上の未来です。サメを釣りすぎれば数が減ってしまい、釣り上げれば死んでしまい、その死体はその場に残ります。頭を解体したら血が出てくるし、肉を切るのは大変だし、残った肉はごみとして出るし、肉片にはハエがたかり、野良猫が余りをもっていきます。未完成になった顎の剥製は我が家の冷蔵庫に保管されました。


(サメキャンプの写真です。僕は左の頭を解体しました)

思うに、食育、環境教育、命の大切さを教える云々は、この“先”に鍵があるのかもしれない、というのが僕の最近思いついた勝手な仮説です。自然に出かけて行って動物見つけて「わぁー!」という感動も確かに大事だし、何もないよりは100倍ましですが、その先に関われるか、例え関われずとも思考をすることができるか。そこに自然に関する教育、命に関する教育の根本があるのかもしれません。

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※1 サメの中にはオオメジロザメやガンジスメジロザメのように、淡水域に生息できる種がいる。実際、僕たちは沖縄サメ合宿の際に川でオオメジロザメの幼体を目撃した。

※2 てか、モンスターファームやりたい人いないですか?いますよね。きっといますよね。やろうよ。やりたいんだけど。やらないの。やろうぜ。なう。求めてる。うん、やろう。

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