【サメ活記録 ~夢プレゼン2 (PART2)~】

前回の続きです。

プレゼン会のまとめと言いつつ、プレゼンで話していない点もがっつり入っています(笑)

 

【保存の問題点】
「自然そのものの価値を認める考え方」と聞くと、保存は実に素晴らしい考え方のように思えます。しかし、この考え方にも問題点がいくつかあります。ちょっと多いのでまずは箇条書きにします。

 

①自然と人間とを切り離して考える点
②保存が主張する「本源的な価値」とやらが人間の価値観でしかない思考矛盾
③保存をするための過剰システム依存の可能性

 

①について言えば、保存は「原生自然」、「人が足を踏み入れていない保護区」というものに価値を置いています。しかし、人間が手を触れない手つかずの自然などそうそうありません。この点については以前の夢プレゼン会の補足記事で触れていますが、人間は自然の中で生き、動植物を食べ、時に押しのけ、時に共存し、発展してきました。現に、どれだけ文明が発展しようとも、僕らの食べているものは元をたどればすべて自然環境から来ています

自然と人間とのつながり、一体感を忘れるとどうなるのか。一つには、自然に対する自分たちの行いの責任を忘れてしまいます。東南アジアの違法な森林伐採のニュースを聞くと「森の動物たちの住処を奪うのか」と怒りたくなるかもしれませんが、日本は、そんな東南アジアから木材を安く輸入している国の一つです。さらに言えば、海外から木材を輸入しておきながら、日本の林業は衰退し、山がほったらかしになっているのです。

さらに言えば、人間社会の基盤となる部分で自然と向き合っている人々の営みが軽視されます。第一次産業の人々ですね。僕らの食料を確保してくださり、僕らの資源を管理してくださる方々です。原生自然を守る、かわいそうな動物たちを殺してはいけない、そんな考え方からすれば極論農家や漁師は犯罪者です。しかし、僕らの発展は彼らの努力なしにはあり得ないのです。我々が食料と関係のない仕事をしているのに全く食事に困らないのは、分業によって自然とダイレクトに関わる人々に、その大事な役割を任せているからです。

②について。保存の立場をとる人が主張する「内在的価値」、「人間と関係のない価値」とやらも、所詮は人間が作り出した価値なので、絶対的な自然の価値を表すことは不可能だということです。というか、絶対的な価値って何よ(笑)?

環境倫理について僕が大きな影響を受けた東京大学大学院の鬼頭秀一教授(2010年)は、人間と自然とのかかわりを大事にする環境思想は人間中心的ではないか、という批判に対し、次のような議論を展開しています。

“そもそも、自然を総体として、そのものとして捉えることは不可能である。原生林に美しさを感じたり、厳粛な感情を持ったりするのも、「使用価値」ではなく、「内在的価値」と言われるが、それは人間にとっての価値でしか規定できない。また、人間から離れた「本質的価値」に至っては、その価値の存在自体を、そのものとして議論することは大変難しい。自然を実体的に捉えるやり方からの価値論には大きな困難がつきまとう(p123-p124)。”

要は、恣意的な価値判断であるにもかかわらず、絶対的であるかのように考えている節が保存派の人々の一部にはいるのではないかと僕は危惧しているわけです。恐らくそういう人たちが、牛肉や豚肉の食いすぎでプルンプルンになった腹を揺らしながら、「クジラを殺すのは残酷だからやめろー!」と吹き上がっているのでしょう。

③について。これは僕の仮説になります。今までのことを踏まえると、保存が「本質的価値」を認めたものが「不可侵な自然環境」として保護されます。

この場合、保存派に残された選択肢は極端に分ければ二つです。一つ目が人類抹殺。「人間のための自然」という概念を否定し、「自然のための人間」、「人間より自然」を訴えるのが保存です。ならば、先進国からどんどん戦争して自滅し合い、増えすぎた人類が自然を過度に破壊しないレベルまで減ればよい。驚くかもしれませんが、実際に一部のディープ・エコロジストの間で議論されている話です。余談ですが、僕は中二病時代に、このような考えをもつテロリストが人間にしか効力を発揮しないウイルスを使用して人類抹殺をもくろむというストーリーの小説を書こうとしたことがあります(空想で終わっちゃいましたが笑)。

二つ目の選択肢が、自然を恣意的に切り取って、「本質的な価値のある自然」を保護し、他を人間社会を支えるシステムとすることです。要は、「クジラは美しいから殺さない。牛を食うのはOK」、「サメのヒレは食べちゃダメです。サンマは食べましょう」と決めて、「でもクジラも牛も哺乳類だよね?」、「サンマも痛みを感じるよね?」という疑問については、システムで覆い隠し蓋をしてしまうのです。実際、僕たちが都市部で買う商品は、すでに切り身にされて「ザ・食品」として売られていますが、その全てが等しく命を奪われたうえでそこにあるのです。システム化された状態では、皆がそれを忘れます。僕も都市部に住み続けている人間なので、自然との生身なかかわりを常にもつのは難しいと正直感じています。

 


(スーパーで売っていたモウカザメ(=ネズミザメ)。まさに切り身)

見たくないものを見ないようにしてなおかつ人間社会を効率よく回すためには資源を徹底的にシステム化すること。システムの過剰依存の果てにあるには、システムに頼らないとろくに食事をとることすらできない人間の集まりです。そして、システムを利用することしか知らない人間は、災害などでシステムが壊れた瞬間に一巻の終わりです。それどころか、ちょっとしたシステム異常(経済の停滞など)で、「自分はもう生きていけない」と思い自ら命を絶つ。

まとめます。保存の考え方は自然のことを第一に考えているという点で美しく聞こえるし、資源としてしか自然を見ない人々に違う価値をもって抗うことで環境保護に大きく貢献している部分もあります。しかし、その考え方が絶対ではないことをわきまえないと、危険な思想、ずれた方向性に向かいかねません。

「じゃあ、どうすればいいんですか?」と問われたらどう答えるのか?

次回の記事で今の僕が考えている方法について書きます。

続く。

———————————————————————

参考文献

鬼頭秀一 『自然保護を問いなおす』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です