【サメ活記録 ~夢プレゼン2 (PART4)~】

前回の記事で、「共同体自然保護」という思想を打ち出しました。

経済だけでなく文化的にも大切な生活空間として共同体が自然を守るという思想です。

自然を遠ざけて手を触れないという保存よりも地に足付けて、それでいて経済合理性だけを追求せず文化や伝統のためにも自然を保護するという考え方であり、考え方自体は環境社会学の分野で研究が実は進められています。

しかし、この共同体自然保護と僕が勝手に呼ぶこの思想にも問題点があります。

 

・共同体の崩壊
これまでの記事でも少し触れましたが、日本における地域共同体は崩壊してしまっているという懸念があります。高度経済成長とグローバル化によって人・モノ・金の移動が自由になる。巨大資本が力をもつことによって入れ替え可能なもの(システム化されたもの、コンビニ・ファミレス的なもの)が拡大する。街の風景や暮らしがシステム重視になると、そこにとどまる理由を失った人がどんどんよりシステム化された場所に流れていく。これでは自然と共に生きようとする人なんてなかなかでてきません。

共同体が空洞化してしまうとそこにある自然を生活空間として見なすことができなくなり、安易な利便性・合理性に人が流れ、自然とかかわりをもつ人間が減り、共同体自然保護が不可能になります。

 

・「文化・伝統」という言い訳共同体自然保護は、「自然が共同体にとって文化的・経済的価値をもつ生活空間となれば、共同体成員が自然を利用(資源利用だけでなく、宗教儀式も含めた営みのための利用)するために保護をしていく」という前提で成り立ちます。

ところが、「文化」、「伝統」の議論を持ち出してしまうと、「これは俺たちの文化なのだから仕方がない」という理屈で保護に反対する輩が湧いて出てきます。残念ながら、マグロやクジラ(太地町などで行われている捕鯨ではなく“調査捕鯨”などという名目で行われている捕鯨)の規制に反対している日本には、これに当てはまる節があります。

サメの保護においても深刻な懸念です。フィニング(※1)を規制しようとしても「フカヒレを食うのは俺たちの文化だ」と反論されれば話がこじれてしまいます。僕はサメを食べたり利用すること自体には反対しませんが、一個体の成熟に時間がかかる高次捕食者であるサメの利用については、やはり慎重になる必要があるでしょう。

どうすればいいのか?

正直模索中です。

プレゼン会では再帰的共同体という概念を提唱しました。

「偶然その土地に生まれた」という理由で共同体に対するコミットメントを引き出せないほどに共同体が人を結束する機能を失い、グローバル化とIT化で共同体の境界線が恣意的になったのであれば、そのままコミットメントを失うのではなく、こちらも恣意的にコミットメントする領域を決めればいい。流動性を逆手にとって、アイデンティティ(例:気仙沼に生まれたからサメ)ではなく、価値(例:サメが好きだから気仙沼)による共同体をネットでもなんでもいいから作ってしまおう。

共同体を作るだけでは仲良しサークルですが、そこで熟議を行い、価値感が深められた人々が増えれば、物事がいい方向に向かうのではないかな、っというのが、ざっくりとした僕の考えです。僕はサメ好きのFacebookグループに入っていますが、職業も年齢もバラバラな方々がこのように集まって交流する機会があるのは大切だと思います。政治集団でも何でもないので年がら年中議論しているわけではないですが、生き物に向き合う姿勢や自然と関わるビジネスのあり方について、多くの示唆をいただく大切な場所です。

僕自身は正直楽観的です。自然豊かな地域を訪れるたびに現地の人々が温かく出迎えてくれましたし、地元地域に貢献しようという地方出身の学生をたくさん見てきました。僕のメインはサメですが、それ以外の分野でも真剣に考えを巡らして行動を起こしている人がいると思います。

 


(先日訪れたサメグッズ専門店シャークスさんの秋葉原出展ブースとそこで買ったブレスレット)

最後が抽象的過ぎて尻すぼみな感じもしますが、

ひとまず4PARTに分けた今回のシリーズはここで終わりにします。

今後、もっと深い議論や面白い体験談を書けるように精進するので、

どうぞ皆さま、引き続き宜しくお願い致します。

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※1 フィニング[finning] サメのヒレだけ切り取って身体の部分を丸ごと捨ててしまう行為。フカヒレだけを得るために行われる。「残酷」、「資源の無駄遣い」とたびたび非難される。

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