【サメから考える○○ ~動物倫理~】

サメ好きや水族館好きのFacebookグループに所属していると、
訃報が流れることがあります。

サメで言えば、
先日仙台うみの杜水族館で飼育されていたヨシキリザメが、
葛西臨海水族園の飼育記録を抜いたのち(252日)、
亡くなったというニュースが、サメ仲間のFBやLINEで共有されました。

   
(うみの杜水族館のヨシキリザメ)

やはり外洋性のサメを狭い水槽に入れると鼻の先が曲がってしまい、
ストレスが原因なのか長生きしないと言われていますが、
よく頑張ったと思います。

また、つい最近のニュースでは、
サメの展示種類数が日本で最も多い水族館として有名な
アクアワールド茨城県大洗水族館にて、
カリフォルニアアシカの大介君が亡くなったという訃報が届きました。

ところが、こうしたニュースの反応は水族館ファンの哀悼だけに限りません。

大洗水族館の公式FBで大介君の訃報が伝えられた時(※1)、
一部こんなコメントが投稿されました。

例えば、自分が、ある日突然、家族の元から大自然の中から拉致されて、監禁されて、芸を仕込こまれて、食べ物を代償に死ぬまで働かせられたら。
二度と家族と合えず、家に戻れないまま、死んだとしたら。
そして、”ありがとう”と言われたら。

人間様のエゴでしか無いですよね!動物園と、水族館と、サファリパークと、サーカスは、悲しみでしか無いです。全て無くなればいいと思います。動物達に会いたければ、自分達が、自然を壊さず、こっそり見に行けばいい話。
ほんと心の底から、人間様の好き勝手に付き合わせてしまって、ごめんなさいって、思います。やっと楽にならたね♪ですね。。・゚・(*ノД`*)・゚・。

上記、さすがに投稿者名まで書きませんが、原文のままです。

今回はアシカという
比較的人間が感情移入しやすい動物だからかもしれませんが、
訃報を伝えるだけでこの始末。
水族館や動物園はやはり論争が絶えませんね。

今回はサメに限らず、こうした水族館残酷論について、
以前の記事で書いた内容を掘り下げて書きます。

目次:
【『相手の気持ちを考えろ』とは言えど】
【僕たちの社会は無数の屍の上に立っている】
【選択肢は二つ、動物になるか神の使徒になるか】
【擬人化できる動物を虐殺できる一般人が問題?】
【ではサメはどうなるのか】

 

 

【『相手の気持ちを考えろ』とは言えど】
今回寄せられた批判の中によく登場する文言として、
「動物の目線」、「動物の立場に立って」、「動物の気持ち」という
類のフレーズが数多く登場しました。

動物の立場から見れば水族館飼育は拉致監禁であり、
奴隷制であるという主張ですね。

この主張は、
「家族から引き離されて一定スペースに閉じ込められて過ごす」
=「動物にとって苦痛であり不幸」という前提に立っています。

今回のFBではさらに「天国に行けて自由になれた」というコメントもありました。

ここで一つ疑問なのですが、水族館で暮らす動物たちは本当に不幸なのでしょうか。

「自分に置き換えてみろ!」と憤激するのが水族館残酷論者のお決まりのパターンですが、では聞きましょう。

どうやってあなたは、動物の気持ちが分かるのでしょうか?

さらに議論を深めましょうか。

どうやってあなたは、動物が「気持ち」と我々が呼んでいる認識能力を、我々がそう感じているようなレベルで備えていて、その認識が我々の常識と合致している断言できるのでしょうか?

最初に言っておきますが、僕はここで、「動物の気持ちなんて所詮分からないんだから好き勝手やっちゃおうぜ」というニヒリズムにも劣る暴論を唱えるつもりはありません。

僕が言いたいのは、水族館残酷論者の多くが、こうした動物の認識に関する科学的な理論を(少なくともFB投稿欄という公共の場では)持ち出さず、さも動物の気持ちが分かるかの如く平気で人を批難しており、それはまずいのではないか、ということです。

ペンシルバニア州立大学のヴィクトリア・ブレイスウェイト教授は著書『魚は痛みを感じるか?』(※2)にて、魚が痛みを感じるかどうかを検証するプロセスで様々な実験と生態観察記録を使い、「魚が痛みを感じている可能性は高い」と結論付けました。

魚という僕たち哺乳類から離れた種の研究とはいえ、痛みというシンプルに思える反応の測定ですら、とてつもない試行錯誤と考察の上で導き出されます。動物の幸福感について分かったように議論するのはかなり軽率です。まして、「天国に行けてやっと自由になれた」などと、噴飯物です。自分の感情論に同情票を集めるために、人間が作り出した宗教という抽象世界を動物の次元にいきなり落とし込んで崇高なことを言っているように見せつける。あえて誇張した言い方をしますが、キリストだの仏陀だのそれっぽいことを並べてそれっぽくしようとした麻原彰晃に近いものを感じます。

もちろん、科学的にすべて証明されなければ主張してはダメだとか、動物は苦しんでいるか分からないから福祉については考えなくていいとか、そう言うことが言いたいのではありません。飼育するということは、その動物はある種社会的な存在になるということであり、その動物の福祉について考えるのは当然です。僕も、狭い水槽にサメが入れられて鼻先が傷ついたり、弱弱しく立ち泳ぎをする姿には正直胸が苦しいときがあります。

ただ、何が動物にとって幸福か感情論だけで決めるのはまずいです。まず倫理的なことを考える思考として浅い。自然界での動物の暮らしは過酷です。餌が食べられないかもしれない、捕食者に食われるかもしれない、嵐が来るかもしれない、(雄ならば)雌を巡る争いに敗れボロボロになるかもしれない・・・。水族館はそうした脅威がないようにシステムとして管理されています。何度も言うように、「だから水族館も幸せだ!」ではなく、そうした側面もあるということを踏まえ議論しましょうということです。

もう一つの意味でまずいのは、自然保護の観点です。動物の気持ちは分かりませんが、仮に動物の幸福を種全体で仮に考えた場合、種の存続の方が幸福順位が高いことになります。あくまで仮の話、いや見方の問題ですが、動物の幸福が種の存続だった場合、避けるべきは水族館で一生を終える命よりも、人間による生息域の破壊や汚染です。とすれば、水族館にいる動物が都会という生活環境に、「海の生き物が観たい!」と思う多くの人間を留まらせ、さらに自然保護に関心をもつ人間を増やすことに貢献していれば、水族館は動物の幸福に役立っているという理論が成り立ちます。

 

 

【僕たちの社会は無数の屍の上に立っている】
水族館残酷論者や反捕鯨団体へのよくある反論として、
「そもそも生き物をお前ら食べてるじゃないか」というものがあります。

当たり前の話ですが、僕たちは他の生き物の死なくしては生きられません。

「水族館は娯楽のために生き物を苦しめている」という反論の仕方もありますが、僕たちの社会は食べ物となった生き物以外にも無数の生き物の屍を糧にして成り立っています。Facebookで水族館の公式HPにクレームを入れられる人間であれば、少なくともそれなりにまともな住居に住んでいてPCやスマホを使えているはずです。そのレベルの生活水準を維持している時点で、彼らの生活はいわゆる自然環境を切り開いて人間が他の生物を追いやって発達させたシステムの恩恵を受けています。たとえ彼らの着ている服や食べているものに動物性のものが使われていなくても、住居は他の動物の生活環境になりえた場所であり、植物自体も多くの動物の住処です。

動物性の料理を食べないとか、水族館に行かないとか、個人のこだわりとしては別に僕も非難しませんが、それをさも崇高なことのように威張り散らすのは哀れであり、それを根底に他人を攻撃するのは単なる迷惑です。なんとなくAKBが嫌いだからという理由でAKBが出演しているCMの商品を買わないのと同レベルの話です。個人的なこだわりにすぎません。崇高なミッションのように語るのは滑稽です。

 

【選択肢は二つ、動物になるか神の使徒になるか】
水族館から抽象度をかなり上げて、
動物を苦しめたり殺したりせずに人間が生きることができるのか
という命題を話しましょう。
現代社会では不可能というのが僕の考えです。

いや、人間がテクノロジーを駆使して、本気で目指せば可能かもしれない。
微生物や鉱物に含まれる栄養素や人間の排泄物だけから栄養を生み出し、
水とサプリメントだけで人間が生きられる時代が来るかもしれない。

 

あえて問いましょう。そこまでしなきゃいけない?

 

テクノロジーを使えば人間が動物を苦しめず、干渉しない神の使徒のごとく上から見下ろす存在になれるかもしれません。しかし、人間も同じ動物です。そこまでする必要があるでしょうか。動物を殺さない神の使徒を目指す過程で必要な時間とお金で、救うべき別の人間の命や自然環境があるのではないでしょうか。

“The Skeptical Environmentalist” の著者であるビョルン・ロンボルグ氏はTEDトークに出演した際、多くの人が気候変動に関心を向けるが、気候変動解決に巨額の資金を投じても小さな変化しか起こせない。しかし、同じ金額をエイズ撲滅に投じればかなりの命を救えると論じました。彼の主張そのものの是非はここでは問いませんが、僕も方向性としては近いものを感じます。

僕の単なる勉強不足かもしれませんが、動物愛護を過剰信奉する人間の論拠にはどうも穴があるように思えてなりません。穴とは、「なぜ自然界の動物が他の動物を殺すことが許されて、人間は許されないのか」という質問にきちんと答えていない点です。人間が頭がいいからですか?理性的だからですか?単なるお猿さんなのに?

思いあがるのは勝手ですが、人間が完璧だと思い込んでシステムに頼りすぎると、それが大問題になることは目に見えています。水族館を批難しているけれども神の使徒を夢見ている人に問います。確かに水族館は不完全なシステムです。ですが、あなた方が夢見ている社会は、水族館よりも複雑で完璧さを求めるものです。水族館すらまともに機能できていないとしたら、あなた方の理想郷は機能するでしょうか。

 

【擬人化できる動物を虐殺できる一般人が問題?】
僕は人間が生きる過程で、食べ物にするかどうかに関係なく、
生き物を殺すことは致し方なく、それは良しとします。
しかし、以下の理由から殺生には道徳的、法律的規制が必要だとも考えます。

その理由とは、擬人化できる生き物を平気で殺害できる倫理観の一般人は社会において問題になる可能性があるからです。

分かりやすく言えば、「生き物を自分の手で殺すのは可哀そうだし、実際に死ぬのを見るのは辛いけど、こうした死の上に支えられているんだな」と納得したうえで生き物を扱うのと、シューティングゲーム感覚で生き物を扱うのははっきり区別されるべきだということです。特に人間が「可哀そう」と感情移入できるレベルの動物をもののように扱う人間は、あと一歩で人間を同じように扱う可能性があるので、脱社会的存在として脅威になる可能性があります。

これは宮台真司先生が『14歳からの社会学』で論じた殺人を犯してはいけない理由の話に通じます。殺人を犯してはいけない理由など存在しないのです。「なんで殺してはいけないの?」と問われた時点で負けであり、殺せない人間を育てることが必要なのです。

僕はここで、根拠や論理をたどるとこうなる、という話とは別に、社会が動物と関わるうえで良い感じに回るにはどうしたらいいかという話をしています。「よく分かんない」という方は個別に連絡ください。また機会があれば深く話します。

 

【ではサメはどうなるのか】
アシカの話から始まったのに無理やりサメに持っていきます(笑)

サメに関しては、僕の感想ですが、擬人化できるほど愛着を持っている人はやはり一般には少ないようです。無表情で泳ぐ殺人マシーンというマイナスイメージは簡単にはぬぐえません。

しかし僕は楽観的にとらえています。僕の周りのサメの飼育や解剖を行っている人たちは、サメを単なる実験動物やコレクションではなく、愛らしい動物だと捉えているからです。解体もするし、釣りもするし、一緒に泳ぎもする。食べることもある。それでもサメを愛し、守りたいと思っていて、時に可哀そうに感じます。サメに関わる人、水族館に関わる人に、こうした微妙ともいえるバランスを保った人がいて、そうした人たちが多くなれば、サメに対する見方や福祉が変わっていくと思います。

 

 

少し長くなりましたが、今回はここで終えます。
最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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※1 大洗水族館の公式HPスタッフブログはこちら
http://www.aquaworld-oarai.com/staff-blog/news/20170304-9338

※2 2012年第1刷発行、原題:Do Fish Feel Pain?


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