何かが「必要」と言う時

一人暮らしを始めて4か月以上経ちますが、未だに炊飯器と電子レンジが家にありません。「買おうかな」と思った時もありましたが、結局必要性を感じずに買いませんでした。

そうするとよく言われます。
「日本人なんだから米を食べないと」
「電子レンジは必須でしょ」

色々言われますが、結局買う気はおきません。だってなんとかなってるもん。

もちろん日常会話で言われたときにはこんな回答だけで済ませていますが、よくよく考えていくとそもそもおかしい。

僕は言いたい。
「米を食わなきゃ日本人じゃないってアホか」
「いや、必須って僕生きてるんだけど(笑)」

今回は「必要」という言葉について考えてみます。

目次:
【アイデンティティのために「必要」?】
【「必要」は願望の表れ?】
【自然との関係で「必要」を考える】
【「食べる」ことで自然とつながる?】

 

 

 

【アイデンティティのために「必要」?】
「日本人だから米を食わなきゃ」。この言動は、突き詰めるとやっぱりおかしい。

僕が日本人であることの証は、なんでしょうか。僕は日本で生まれた日本人の両親を持ち、約1年の留学期間と数度の海外旅行を除けばずっと日本に生息しているホモ・サピエンスです。これだけでは不十分でしょうか。

ナチスの迫害から米国に逃れた哲学者ハンナ・アーレントの逸話でこんなものが紹介されていました。「ユダヤの娘らしくない」と批判されたアーレントは「私はユダヤの娘である。ユダヤ的にふるまわなければユダヤ的でないというのはおかしい。同じ理由でユダヤ的でいなさいという指摘もバカらしい」という趣旨の反論をしたそうです(※1)。

「日本人だから米を食べなさい」言動に僕がここまで憤っているわけではないですが(まあ、いじられるのはウザいです笑)、この話はちょっとした示唆を与えてくれます。「〇〇をしなきゃ〇〇ではない」という意識の裏には自分のアイデンティティを保つには一定の行動、それも社会からある程度そうと認められている行動を続けなければならないという認識が人々の中にはあるのではないでしょうか。

 

 

【「必要」は願望の表れ?】
僕たちが「僕たちはAだからBしないとね」という時には、別の理由があるかもしれません。それは、「BをしたいからAであることを理由にする」ということです。

例えば、男女が結婚したいとしましょう。しかし何故結婚したいのでしょうか。愛し合っているから?別に恋人同士でも愛し合えるでしょ。一緒に住むから?住民票移せば社会的手続きは問題ない。子供が欲しいから?受精卵を作ってきちんと育てれば子供は生まれます。

要はこういうことではないでしょうか。「結婚したい」という願望をなんらかの形で抱いている人が「5年付き合ったから」、「子供が欲しいから」とか色々な理由をつけて書類を提出し、とてつもない出費で結婚式を挙げ、一人の生殖パートナーに一生を捧げるという遺伝子を後世に伝えるには一見不合理に思える選択をするのです(それが良いか悪いかは全く別問題です)。

ここでの願望の出どころは重要ではないです。「結婚したら幸せになれる」という漠然とした思いが原因か、「愛する男女は結婚するものだ」という社会的通念が基盤かもしれない、ゼクシィの広告や芸能人の記者会見に洗脳されたからかもしれない。そこは別にいい。要は、ある行為をするのにはそれなりに理由があるように思えるが、別にそれをしなくてもその理由自体はどうにかなる。突き詰めてみれば、その行為無しでもいいじゃんってことがあるということです(無論、遺産を相続しやすいようになど、本当に目的のために結婚の必要性が高い理由もあると思います)。

 

 

【自然との関係で「必要」を考える】
これまでの論点整理。
「アイデンティティを保つために〇〇が必要と思い込むことがある」
「〇〇をやりたいがために色々理由をつけて必要っぽく言うことがある」

これが当てはまるかもしれないと考えたのが、サメ肉や捕鯨問題です。

「フカヒレを食べるのは中国人の伝統なんだ」と言われても、「フカヒレ食わなきゃ中国人でなくなるわけじゃねーだろ」と反論することは可能です。あるいは「鯨を食べるのは太地町の伝統だから食わせてくれ」というのは「お前らの伝統って鯨食わなきゃ守れないの?」と突っ込まれたら弱いかもしれません。

左がフカヒレを使ったあんかけご飯。右がフカフレスープ。

地域の伝統を守るため。生き物とつながりを感じるため。ある特定の動物を食べる理由としてこういうことを挙げるのは簡単ですが、それをしなければいけないの?と突っ込まれたときに、反論できるかは難しい問題です。事実、僕らが伝統だの昔からの文化だの呼んでいるものは固定的ではありません。厳密には「原生自然」などというものが存在ないのと同じです。最初の米の話に戻れば、「そもそも米だって長い目で見れば外来種だろ」という突っ込みをすることもできます。

動物を殺すことそのものに過剰に反対する愛護団体も「必要ではない」という論をよく展開します。かの有名な『動物の解放』の著者ピーター・シンガーもその一人です。その著書の中でシンガーは、あらゆる理由から「肉を食らうことは必要ない」という主張を展開し、動物に痛みを感じさせる行為はやめるべきだという持論が現実離れしていないことを示しています。

『動物の解放』原題:Animal Liberation ピーター・シンガー著 戸田清訳

シンガーの論とはきちんと「対話」しきれていないのでここでは深く取り上げませんが、確かに僕たちは珍しい生き物であるサメやクジラを食べるという行為を正当化するために「伝統」、「文化」という免罪符を掲げている危険性があります。

 

 

【「食べる」ことで自然とつながる?】
しかし、肌感覚ですが、僕は思うのです。「食べる」という行為を通して自然とつながるというのは確かにあると。そもそもいくら美化したところで、僕たちが他の生物と最も多くかかわるのは食べるという営みを通してです。

実際にクジラを食べたこともイルカと泳いだこともない奴がナショナリスト気取って反捕鯨団体を悪く言うのはおかしいと思いますが、自然や生き物のことについて考え日々触れ合う人であれば、その感覚から「こういう前提の下で考えるならば、これは「必要」ではないか」と慎重に議論して行動することができると思うのです。そして、そういう人の中には、日々その生き物を食べている人もきっといると思うんです。

毎回結論があいまいで申し訳ないですが、今日はここまでです。
『動物の解放』とか外来種問題とか、時間をかけてじっくり考えてここでも紹介していきますね。

ああ、ちなみに、僕は別に米を食ってますし、結婚を全くしたくないという訳でもないですからね。念のため。

 

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※1 宮台真司著『社会という荒野を生きる。』p174,175

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