「可哀想」を考える。何故特定の動物を憐れむのか?

先日、Youtube動画を拝見していて、実に興味深い投稿を見つけました。
今回はそこから考えていきましょう。

目次:
【WANI鰐さんの動画】
【何故かわいそうでないかをあえて考える】
【境界線をどこに引くのか】

【WANI鰐さんの動画】 
動画の投稿者はWANI鰐さんというアカウント名で、フトアゴヒゲトカゲ、ベルツノガエル、フクロモモンガなど様々なペットを飼っていらっしゃる方で、主にペットの餌付け動画を配信しています。

WANI鰐さんのYoutubeチャンネルはこちら↓
https://www.youtube.com/channel/UConWtiDi5UKJ-dmZdCUCXyQ

WANI鰐さんの動画は虫(餌)を観るのが苦手でなければ結構楽しい動画です。飼っている生き物への愛情が伝わってきて、お話しできたら楽しいだろうななんて感じます。ついでに言うとイケボです(笑)。

さて、数ある動画の中で僕が興味を引かれたのが、「生きた金魚を餌にするって悪いこと?」という動画です。

この動画は、肉食性の魚に生餌として金魚を与えた動画投稿に非難コメントが来たことへのある種の返答動画です。

実際コメント欄見るとそこまで非難コメント来ていないですが、いわゆる「偽善者探し」、「だったら肉食うな野郎」が沢山いて、ちょっと荒れてましたね。

そんな論争へのWANI鰐さんの回答が良いなと思ったので紹介します。
詳しくは動画を観れば分かるのですが、以下が内容をまとめたものです。

否定意見①:かわいそう
WANI回答:「かわいそう」は大事で偽善ではない。でも「かわいそう」だけで命を奪うことを批判するのは間違っている。僕たちの生活は必要不可欠なものもそうでないものも沢山の犠牲の上で成り立っている。それを今全て否定するのは間違っているのではないか。それを無くすのではなく、感謝して生きることが大事ではないか。

否定意見②:生きたまま餌にするのは残酷
WANI回答:餌の鮮度、肉食魚の健康などを考慮した際、生餌の方が良い。金魚を傷めつけたくて生きたまま餌にしているわけではない。

否定意見③:(動画に挙げて)見世物にするのが残酷
WANI回答:肉食魚愛好家としては、犬がドッグフードを食べているシーンと変わらない。意図としては「金魚が殺されるシーンを公開して楽しもう」ではなく、自分のペットの魅力を共有したいだけ。

僕の意見ですが、上記については全てかなり共感できます。
よくあるこの手の論争のパターンが「可哀そう」→「じゃあ肉食うなよ」というものです。先日Facebookでフォアグラを食べる会に来た非難コメントがめちゃくちゃ叩かれているのを見て、言っていることには納得できましたが、僕は疑問を覚えました。批判が低俗でそもそも匿名性だからというのもあるかもしれませんが、反論が一方的すぎる気がしたのです。

捕鯨論争もフカヒレ論争もそうですが、「可哀そう」→「うるせえ、てめぇも肉食ってんだろ」というのはいささか単純すぎます。こういう人間に限って、普段肉食べる時に感謝も別にしていないし、魚や動物を殺して食べる経験もしていないのではないでしょうか。

僕は先日も東大のオープンキャンパスでサメの解剖に立ち会いました。すでに死んでいる個体でしたが、子供から「かわいそう~!」という声が上がっていました。別に悪くないと思います。ただ、その子の心が病んでしまわないようにケアしながら「君が食べているものも生きているんだよ」ということを伝えていけばいいのです。

ここまでは否定意見①についてですが、否定意見②については、サメ好き仲間で淡水魚が専門の方も生餌の方が食いつきが良いと仰っていました。これについては間違いないと思います。事実、水族館では死んだ魚を餌として大型魚やイルカに与える場合、別の餌やビタミン剤で栄養不足にならないようにすることもあります。

否定件③については、僕は好みの問題だと考えます。ドキュメンタリー映像を観ていて、喉を引き裂かれるトムソンガゼルに同情するか、獲物に逃げられて空腹を満たせない母親チーターに同情するかの違いでしょう。

 

【何故かわいそうでないかをあえて考える】
「倫理的に良くない」
「いや自然の営みだ」

そんな論争をここでしてもキリがないので、ここでは「それはよくない行為か」ということよりも、「何故特定の動物はOKで、他は非難されるのか」。その理由を純粋に考えてみようと思います。

例えば、WANI鰐さんの動画では生きたゴキブリや芋虫をトカゲやハリネズミに食べさせる動画も投稿されていますが、こちらには否定コメントはほとんど来ていません。

さっきの話に関連しますが、「だったら肉食うな野郎」の理論で言えば「金魚の生餌を非難するならゴキブリの生餌も非難しろよ」あるいは「お前らゴキブリに殺虫剤絶対かけるなよ」とかってなります。捕鯨論争でも同じですね。「鯨を食うなジャップ」→「なら牛を食うなデブ」となるわけです。

ここで考えたいのは、どっちが正しいかではなく、なぜ金魚に同情する人はいてゴキブリに同情する人はほとんどいないのか、です。

動物倫理について学んでいると「人間優位主義は正しいのかどうか」とか「肉食は本能だから正当化できるのか」とかという話が並びますが(そしてほぼ確実に否と結論付けられますが)、なぜ人間がピーター・シンガーの言うところのスピーシーシズムをしてしまうのか、特に、黒人差別や女性差別に反対する人がしてしまうのか、あまり深くは触れられていません。主に「良くない、是正しよう(→たいていベジタリアンになろうと同義)」とだけ主張されることが多いように感じます。

僕から言わせればシンガーは差別の基準を「人間ではないかどうか」からジェレミー・ベンサムの功利主義をもとに「痛みを感じるかどうか」という基準にシフトしただけで、結局その能力で生物を差別している点では、悪いとは言いませんが全く正しいとも言えません、ついでに言えば、もとになっているベンサムの功利主義も問題が多いです(これについては長くなるので改めます)。

未熟者である僕の持論ですが、正論をぶつけて相手の考えが理に適っていないとしたところで、現に相手がそう考えているという事実は否定できません。動物倫理の話で紹介される話でよくあるのが「犬や猫を可愛がるのに、なぜ動物の肉を食べるのか?完全に矛盾している」というものです。ですが、現にサメが好きでサメを飼いたいし一緒に泳ぎたいと思っている僕たちサメ好きがサメを食べることもするという事実は否定できません(もちろん、サメが好きすぎて食べれないという方もいらっしゃいますが)。

 

 

【境界線をどこに引くのか】
現状僕が考えているのは、動物倫理における「〇〇で差別してはいけない」という主張とは別に、人間には「〇〇で動物を区別する傾向がある」というトレンドが存在するということです。そして、その区別の基準は「その生き物が社会化された存在として埋め込まれているかどうか」だというのが現在の仮説です。

倫理的理由で捕鯨に反対する人が牛肉を食べるとします。その人にとって鯨は頭がよく、子供の頃に見た映画で可愛いという強いイメージがあり、みんなもクジラが大事ということに同意してくれる。だから捕鯨は許せない。では牛肉はどうでしょうか。彼にとって牛は食料でしかない。理屈では牛も生きていて痛みを感じていることは分かる。だから可哀想という感情も湧くこともなくはないが、反対運動を起こすほどでもない。理由が良いか悪いかは置いておき、この例で言えば、理屈を超えた部分でクジラと牛は彼にとって異なる存在なのです。

種だけではなく、同一種の個体間でも埋め込まれている度合いは異なります。例えば、韓国では犬を食料としますが、ペットで飼っている人もいます。実際に僕は宇宙で一番可愛いであろうワンちゃんを実家で飼っていますが、犬を使った料理を食べろと言われれば恐らく食べれます。では、実家のワンちゃんを食べられるのか。無理です。それは韓国料理で出てくる犬と実家の犬が僕の中で社会的存在として重要かどうかという違いです。

我が家のワンちゃんです。

あるいは、同じ動物でも状態により異なるでしょう。例えば、牛は哺乳類で表情もあり可愛くて、間近で見れば社会化された存在として大切にしたいと思う人も多いはずです。しかし、スーパーに並んでいる牛肉は切り身と化しています。物理的にしろ精神的にしろ、動物をこうした物のようにすることを僕は物格化と呼びます。物理的な物格化の例は切り身やすり身にしてしまうことです。精神的な物格化の例は「牛は人間と比べて劣った動物だからどうしたっていい」という思い込みや「cow」を「beef」と言い換えるような言語表現です。

反論処理もしておきましょうか。ここまで読んで「そんな打算的に命のこと考えているのかお前は!」と噴き上がるのはアンポンタンです。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と同じで、実際には僕たちは(まして遺伝子は!)そんな複雑な計算するのではなく、そういう風にプログラムされたように動くということです。この社会化、物格化の話も同じで、僕たちはそういう風に生き物の命を考えているということです。

もう一つ、ここで言う「社会化」とはその生物が一般的なペットと同じように社会的な枠組みの中に深く関わっていることを意味しません。人格化と呼べば分かりやすいでしょうか。要は、何らかの理由で尊厳や道場に値する対象であるとみなしていることを指します。ある人間にとってはサメが、別の人間にとってはクジラが、金魚が、その対象になります。

統計にも実験にも支えられていない僕の仮説ですが、いかがでしょうか。皆さんの意見をお待ちしております。

明確な事実によりくじかれない限り、僕は上記の仮説をもとに、「動物といかにより良い関係を気付いていくか」という命題を探求していくつもりです。

そんな僕の旅にお付き合いくださる方、次回の記事もよろしくお願いします。

 

 

【Writer Profile】
自称サメ社会学者Ricky

1992年東京都葛飾区生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2016年から現在の肩書を使って活動。社会人として普通に働きながら、
サメ関連イベント参加、水族館巡り、水族館ボランティアなどの活動を通して
サメについて学び、サメ、環境、水産、動物倫理などの分野で情報発信を行う。

 

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