肉を食うイベントもいいが、生き物を殺すイベントはいかが? 「人の食文化に口を出すな」を冷静に見直してみる

Twitterをあまり長い時間見ない僕ですが、ふと目に留まった投稿がありました。投稿文は以下の通りです。

「僕は犬を食べない。でも、愛らしくて人懐こい動物だけが生きる権利があるなどと欧米人から説教されるのはうんざりする」

韓国の犬を食べる文化に触れていたこの投稿のコメント欄には、「結局は白人至上主義につながっている」とか「捕鯨も同じだよね」といった趣旨のコメントが多数寄せられていました。

もう一つ前置き話を。

僕がFBでつながっていて時々絡む某人気イベンターの方がいます。その方は定期的にフォアグラを食べる会を主催しています(僕の友人の20%以上がこれで誰のことを言っているのか分かるはずですが、あえて誰とは言いません)。

その方のフォアグラ会に「残酷だ」とかいう理由でケチをつけてきた件に関し、コメント欄は賑わっていました。「じゃあ肉食うな」系のコメントがやはり多かったです。

さて、僕は最初のTwitter投稿も、某イベンターの方も批判するつもりはありません(本人読んでいるかもしれないし笑)。しかし、コメント欄で湧いている方々に対してはちょっと違和感を覚えました。

ここではそんな違和感について話します。

目次:
【「文化」ならすべてOKか?】
【「残酷なのは知っている」の「知っている」って何よ?】
【肉を食いながら動物倫理を訴えることは本当に偽善か?】

 

【「文化」ならすべてOKか?】
フォアグラ、捕鯨、フカヒレ。どの件についても「残酷だ」、「野蛮だ」と言われると必ず出てくる反論の一つが「人の文化に口を出すな」です。

欧米人は牛や豚を食いまくっている。日本人は(正確には日本人の一部は)それと同じでクジラを食べる。これが俺たちの伝統なんだ。そんな話です。

では、文化であれば正当化されるのでしょうか。

どうしても幼女趣味がやめられない中年男性がいたとしましょう。彼は彼女たちに”いたずら”する際に必ず合意を得ていたとします(面倒なので合意を得る手段の正当性は考えないでください)。さあ、彼がレイプ魔でないとしても、中年男性が幼女に性的興味を向けるのはいかがなものか。

ところが、彼が「最低限の合意を得ている。人の好みに口を出すな」と言ってきたらどうしましょう。

超個人的な見解としてアリコン(アリスコンプレックス、小学生ほどの年齢にだけ性的興味を持つ、ロリコンは中学生くらいを対象)が生理的に無理で嫌悪感MAXな僕は、「個人的好みならOK」などと言う人間が幼女に手を出すのを見たら、そいつの股間にファルコンパンチします。

僕は「フォアグラを食べたりクジラを殺したりするのは残酷だから「文化だからOK」と言うお前らは変態と一緒だ」とか言いたいのではありません。そうではなく「文化だから口を出すな」は、この手の問題で反対している相手に対して何の効果もない反論だということを理解した方がいいということを僕は言いたい。

現に、反捕鯨運動の旗振り役として有名なリック・オバリ―を始めとする活動家は、「かつて奴隷制が文化として根付いていたが今は撤廃された。それと同じように捕鯨もやめるべきだ」という趣旨の論理を展開しています。彼らに賛同するかどうかは別問題ですが、この主張に対し「文化だから口出すな」は根拠として弱い。そもそも、人間の文化は良くも悪くも変化するものです。生まれたときは存在もしていなかったiPhone片手に「これがないと生きていけない!」とか言っちゃっている若者が、自身が生まれる前の食文化を指して「俺たちの食文化に口を出すな」と吠えるのは、見方によっては相当滑稽です。

サメに関して言えば、台湾や中国で人気のフカヒレスープに対し、著名人が反対を表明することで伝統およびステータスとしてのフカヒレが揺らぎつつあるようです。フカヒレ問題は関わる人の多さと闇の世界の暗躍があるので真実は分かりかねますが、この例だけ見ても文化が一枚岩ではないこと、そして文化が動的であることが分かるでしょう。

 

【「残酷なのは知っている」の「知っている」って何よ?】
フォアグラの件で誰かが「フォアグラがどう作られているのかは知っている(そのうえで食べている)」みたいなことを言っていました
。誰だか覚えていません。そして、その方がどういう方でどう学んだ方なのか知らないので、以降の内容はその方をダイレクトに批判するものでは一切ないことを先に述べます。

「〇〇(フォアグラ、鯨肉、フカヒレ、犬、その他)を食うのは残酷だ」という批判に対し「お前ら肉食ってんじゃねーか」と吠える、僕が「だったら肉食うな野郎」と名付けた人々がいます。

「残酷なのは知ってて食べている」と「お前ら肉食ってんじゃん」は一見別の主張のように見えますが、僕は共通するところがあると思います。どちらの主張をする人も「肉を食うのは悪いことじゃない」と「自分たちは肉が生きていた動物のものだと知っている」という二つの考えをもっているはずです。

ではお聞きしますが、「知っている」というのはどういう意味でしょうか。

「この肉は牛肉って言うんだ。「牛」はウシさんのことだから。これはウシさんのお肉なんだ。つまり生きている動物のお肉なんだよ」。この程度のことを「知っている」というのであれば、小学生以下でも分かることです。これを根拠に「知っている」なんて言われたら、動物がさすがに可哀想です。

はっきり申し上げますが、自分で食べる生き物を捕まえて、その生きた姿を見つめ、それを食った人間以外が「肉が生き物だったことを知っている」などと言うのは、「分かったつもり」の典型です。パック詰めされた魚の死体を日々食い漁って「寿司~♡!!」とか言っている女子にクマノミの死体見せたら「ニモが可哀そう」とか言い出す。カクレクマノミの素揚げを口に突っ込んで黙らせたほうがよろしいでしょうか(ちなみにクマノミって美味しいのかな。ちょっと気になる)。

僕は釣った魚を食べたことが何度かあります。アウトドアが面倒だと言う方は、ぜひ環境水族館アクアマリンふくしまを訪れてください。「命をいただく教育」というコンセプトのもと、釣った魚をさばいてもらい食べることができます。人数の制限がありますが、魚をさばく体験ができる教室もあります。

「なんだ魚じゃん」と思うことなかれ。魚は釣り上げられたら激しく暴れますし、口と鰓を動かして生きようとしますし、しっかり手でつかまないと結構な強さで動くので危うく逃げられそうになります。こっちを目で見つめてきます。間違いなく、必死に生きている生き物です。そして、さばくと血が噴き出してきます。動画でしかお届けできないのが残念ですが、アクアマリンふくしまの宣伝もかねて載せました。

こうした生の体験をしない限り、動物の命を僕たちが食べているという感覚に至るのは難しい。「いただきます」の挨拶だけ大事にしても意味がありません。「食事」、「ご飯」と呼ばれた時点でその食べ物はものと化しています(僕はこれを物格化と呼びます)。時々でもいいので、物格化せずに動物と対峙する経験をすることで、「知っている」という段階に進めるのではないでしょうか。

ちなみに、「〇〇の肉を食う」というイベントはよく見かけますが「〇〇を殺して食べる」というイベントはあまり見ない気がします。これを読んだイベンターの方はぜひご検討いただきたい。

 

【肉を食いながら動物倫理を訴えることは本当に偽善か?】
僕はこうした動物倫理の問題をここ1年くらい考え続けてきました。未だ最終結論に至った気はしません。至ったところでテクノロジーの変化で思考をシフトせざるを得なくなるかもしれません

現段階の僕の考えですが、肉を食いながら動物倫理を訴えることは矛盾ではない気がします。

功利主義的観点から動物倫理を訴える人は「苦しむ者がいるから必要最低限だけで暮らせ。それで生きていけるじゃないか」と言います。しかし、僕たちはATPの合成に全く必要のないものの恩恵を受けて暮らしています。というか、肉を食わなくても多分生きていけるクマが普通に鮭とか鹿食ってる。ここら辺は今は深くは突っ込まず端的に書きますが、「菜食主義が理想だ」という主張ありきで「肉食動物はどうなんだ」と反論されると「彼らはそこまで思考することができない」とか「彼らはそれしか手段がないから仕方ない」と言う動物倫理は、自分の主張が倫理的に正しいことを前提に自然の肉食獣すら見下す一種のトートロジーです。

しかし、では好きなだけ動物を痛めつけていいのか?「文化だ」、「動物なのは知っている」などの単なる言葉でオールオッケーなのか。それは間違っている気がする。どこに折り合いをつけていくのか?簡単に割り切れません。菜食主義にならなくてもいいけど、間違っているのではと感じる部分に対して行動を起こすのは許されるのではないでしょうか。

また、動物倫理以外の理由から肉食反対を主張することもできます。第一に、必要最低限に生活レベルを変える必要はないにしても今の人間は肉を食いすぎている。第二に、環境負荷の軽減・資源分配の観点から菜食、および食物連鎖の低次に位置する生き物を食べる方が合理的である。

第一の理由から。現代人は過剰に肉を食べ過ぎています。肉だけでなく米の食いすぎもあるかもしれませんが、肉塊のようにぶくぶく太った人間を見る度「彼らの底知れぬ快楽欲求と不健康のために工場制生産様式で育った家畜たちが犠牲になっているのか」と考えると、何かが変わるべきだと思います。

動物倫理を訴える人々の主張を信じるなら、バランスのいい食事をとれば動物性のものを食べなくても健康を害することはないそうです。また、多くの研究により、肉の過剰摂取が健康に悪影響を及ぼすという結果を提示しています。「動物が可哀想」が理由である必要はないのです。

第二ですが、植物や小さい動物を食べる方が消費する資源は少なくて済みます。ジャレッド・ダイヤモンド氏は「なぜある一定の動物しか家畜にならなかったのか」という問題の考察の中で次のように述べています。

「体重1000ポンドの肉食動物を育てるには、10万ポンド(45トン)のトウモロコシで育てた草食動物が1万ポンド必要になる(したがって、大型肉食獣は家畜化に向いていない)。」

僕が昆虫食に興味があるのもこれが理由です。昆虫は大型の家畜よりも資源を消費しないので、食肉に向いているのです。市場で売れていない理由がくだらない偏見だけであれば、さっさとぶち壊した方がいいと思います。

コオロギ、ミルワームを使った虫料理です。生きている虫は正直苦手ですが、食べるのは平気です。

ちなみに「ならサメを食べるのはどうなんだ」と言われるかもしれません。これについては考えがあるのですが、長くなるのでまたの機会に・・・。

 

 

ここまで読んで、「お前は何が言いたいんだ。はっきりしろ」と言われるかもしれない。はっきりした方が支援者が増えて炎上も起きて僕は名を売れるかもしれない。しかし、僕はまだ考え続け、事実を一個一個認めながら、揺られながら進みたいのです。

強いて結論じみたものを言えば以下の通りです。

・肉を食うことを禁止することも蔑む必要もないが、現代人は肉を食いすぎていて害もあるので、肉食を減らしてもいいのではないか。

・完全菜食にしろフォアグラ・鯨肉反対にしろ動物倫理を訴えている者は自分たちの論理の矛盾に気付くべきだが、一方で「だったら肉食うな」などの反論を行う人々は吠える前に動物のことを学んで向き合った方がいいのではないか。

 

動物倫理の問題は調べれば調べるほど複雑です。自分の食事は正しいのかとか日々考えることがあるので多少ストレスもあります(ちなみに、この記事を書いている現在、僕は自分で作る料理に限り、哺乳類の肉を使わずほぼ野菜、豆類、果物を食べています)。それでも、この問題は「自然とどう関わっていくか」、「僕の大好きなサメやイルカ、他の動物たちをどう守っていくのか」の根本にあるはずです。

いつかこうやって書いてきた内容をまとめて本を出版できたらと思っています。
長文お付き合い頂きありがとうございました。

 

【参考文献】
ジャレッド・ダイヤモンド 『銃・病原菌・鉄 上巻』2012年 p312

 

 

【Writer Profile】
自称サメ社会学者Ricky

1992年東京都葛飾区生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2016年から現在の肩書を使って活動。社会人として普通に働きながら、
サメ関連イベント参加、水族館巡り、水族館ボランティアなどの活動を通して
サメについて学び、サメ、環境、水産、動物倫理などの分野で情報発信を行う。

Youtubeでの動画配信や、第3回ソーシャルドリームコンテスト、もうやん文京などプレゼンイベントで登壇。今後、書籍の出版など活動の幅を広げていく予定。

 

Facebook: https://www.facebook.com/rikiya.mori.50
Twitter: https://twitter.com/shark_sociology
Youtube: https://www.youtube.com/channel/UCj5O8own7uD_kXbjOcI4TOQ

お問い合わせ、質問などはこちら↓
shark.sociology.ricky@gmail.com

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です