不勉強で他人任せ 愛誤という名のアホについて

先日、非常に頭の悪い投稿を発見して僕は爆笑した。

事の発端は僕の知人がFBでシェアした投稿だ。東京大学狩人の会という狩猟や捕まえた動物の調理・加工を活動とするサークルの投稿に、「動物を殺すな」系の投稿が多く集まり炎上していた。

前から動物倫理と生物学を学んでこの問題の最適解を見つけ出せないかと考えてきた僕は、アンチ側がどんな主張をしているのか興味があったので一通り眺めていたが、その中であまりにも突飛な発言を見つけた。下記がその内容である。

「この飽食の時代に、わざわざ個人的に殺す必要がありますか?」

この発言を目にした瞬間、僕は本当に噴き出した。動物愛護に過剰なあまり冷静さを失う人間がいるのは知っていたが、ここまで頭の悪い人間(もちろん、学歴で東大生より低能という意味ではない)がいる、しかもこともあろうに他の人間から「イイネ」されているという事実は、嘲笑を通り越して爆笑に値する。

この他にもこんな例がある。

先日赤坂で捕獲されたアライグマについて、殺処分せずに山に返そうという声が一部であがった。彼らは「本来いるべき場所」である日本の山(笑)特定外来生物のアライグマを返すためネットで騒ぎ立てていた。

今回はこうした発言をする人間たち、ネットで俗に「愛誤」と呼ばれる者たちについてと、そこから発展させ、動物を殺すことそのものについて、僕の考えを話していく。

【目次】
愛護ならざる愛誤とは何か?
ベジタリアンなら愛誤は正当化されるのか
問題は結論ではなく思考回路


愛護ならざる愛誤とは何か?

愛誤という言葉は一般の辞書にあるような単語ではないが、ざっと調べた限り以下のような定義ができる。

愛誤とは、誤った動物愛護精神で、「動物が可哀想」という感情のみで発言や行動を行うこと、またその人。動物を殺すことに過剰反応することを指す場合もある。具体的には、頭がいい、可愛いなどの勝手な基準で動物を評価し、その動物の捕獲や殺処分を非難する。しかもその基準が主観的であるという自覚がない。

愛誤の代表的な例は野良猫に安易に餌をやる人間や、劣悪な環境しか用意できないくせに野良猫や野良犬を多数飼育する人間だ。末期症状になれば、動物を解放するという名分のもと他人に実質的な危害を加えることもある(狩猟・漁業の妨害、保健所に押し入る、ネコの餌やりに反対する人間を攻撃するなど)。

こうした問題に関心のある人は愛誤=ネコ問題のイメージが強いと思うが、僕はネコ問題に詳しくないため今回はあまり触れないので、予めご了承いただきたい。今回の記事では勝手ながら、「可哀想」という理由のもとに動物を殺す営みに過剰に反応する、という愛誤の側面に絞って話していく。

動物を殺すことに過剰に反応する愛誤には不勉強で他人任せで宗教的な輩が多く、僕は非常に頭が悪い有害な存在だと考える。不勉強とは、動物倫理や食物生産に関する複雑な問題などに対して知識がないまたは非常に偏っているため。他人任せというのは、自分たちは衣食住の礎となる動物殺しその他の営みに依存しているくせに感謝せず、平気で他人が行う動物の殺生を非難するためだ。

先のコメントについて解説しよう。「この飽食の時代に、わざわざ個人的に殺す必要がありますか?」というのは、言い換えればこういうことだ。

私たちは他人が殺してパック詰めして、生き物に見えない見た目の食べ物を食べ、「生き物を殺している」という罪悪感も、死体の生々しい姿を見る不快感も味合わず、自然から離れて自由で快適に死体を食い漁り、ブクブク太ることができる社会に生きているのに、なんで自ら出かけて残酷な殺しをする必要があるのかしら。全く信じられないわ。

このように変換すれば、いかにこの女(女性差別とかではなく、投稿者が本当に女性だった)がアンポンタンなことを言っているのか分かるはずだ。ちなみに、コメント主の他の投稿を見る限り、恐らくこのコメント主はベジタリアンではないと思われる。それどころか、プロフィール写真を見る限り、結構太っている。お分かりだろうか。他人が殺して加工した肉を食べて無駄な脂肪をため込んでいる分際で、自身の手で動物を殺す人間を平然と批判しているわけである!これを頭が悪いと言わずにどう表現すればいいのか、放送禁止用語を使わないで済む方法を誰か教えて欲しい。

この例では、自分の食べ物が動物の死体であるということに対する無自覚(ある種の不勉強)、他人が殺した動物の死体を食っておきながら動物殺しを安易に批判する当事者意識のなさ(他人任せ)が垣間見え、愛誤の中でもひどく低レベルな主張であると思われる。もちろん、動物殺しが全部正当化されるとは思わない。問題なのは、自分の生活基盤やそれに絡む複雑な問題のことを考えず、直接生き物を殺した人を、さも絶対正義かのように非難できる精神である。彼女は自分の脂肪になった動物たちと、自分が大好きなネコ(FB投稿のほとんどがネコの保護や受け取りを訴えるものだった)の餌であるキャットフードの原料になった動物たちのことを、少しでも考えたことがあるのだろうか。

不必要に自分で殺すなと愛誤は吠えるが、僕はむしろ、こういうアホを生み出さないためにも、動物を自分で殺して調理して食べる行為を教育に取り入れるべきだと思っている。

 

 

ベジタリアンなら愛誤は正当化されるのか
東京大学狩人の会と直接の面識がない僕は、愛誤を批判する意思はあっても彼らの活動が本当に正当かどうか、判断を保留させてもらう(少なくとも現時点では)。

しかし、彼らのFB公式ページに記載されている「生きるとは命をいただくことにほかなりません」という主張には賛同できる。賛同というか、反対しようのない当たり前の事実である。

多くの動物は生きるために他の動物を殺すか、せめても死肉をあさる必要がある。砂の中の有機物を食べるような生活をしたとしても、それは他の生き物の死体が分解されてできるものだ。罪というのは人間が勝手に作り出した概念だが、もし殺すことや死体を傷つけることが罪だとしたら、全ての動物は原罪を背負っていることになる。

こういうことを言うと、ベジタリアンになればいいと主張する人々がいる。ベジタリアンは愛誤とイコールではないが、ここでこの問題に触れておくことは重要と考える。愛誤が全員ベジタリアンになれば彼らの主張は正当化できるのか?

僕はそうは思わない。ベジタリアンには問題が多い。以下に、いくつかを端的に並べてみる。

動物と植物(さらに菌類)は分類学上たまたま分かれただけであって、命であることに変わりはない。植物や菌類であるという理由だけで殺していいことになるのだろうか。「痛みを感じるか、苦しむかどうかが問題だ」という線引きをする者もいるが、同じ理屈なら無痛症の人間や意識のない人間は殺していいのだろうか。ちなみに、ベジタリアンには魚が痛みを感じないと考えているためか魚を食う人もいるが、魚が痛みを感じることを主張する研究もある。

ベジタリアンになるということは、肉という本来生き残るうえで重要な(必須ではないとしても栄養の摂取効率がいい)食物を放棄することになる。もし飢饉が起きた際も動物を食べてはいけないのなら、それは人間の生き残りの妨げになる。「生きるためにやむを得ず動物を殺すのは仕方ない」とするなら、どこまでが「生きるため」で、どこからが「不必要」なのか。

ベジタリアンとして人間が安定して暮らすための食物を確保するには、牧畜より少ないと言えど農地が必要だが、その農地を開発するために住処を追われる動物の権利とやらはどうするのか。殺されない権利さえ認めれば、住処を奪われて飢え死ぬ個体がいることはベジタリアンにとって許容範囲なのだろうか。ベジタリアンが着ている服の原料や住んでいる家を構築する木材は、動物たちの住処を壊して作ったものではないのか。家を差し押さえて財産を奪い自分をホームレスにしたヤクザを、自分を撃ち殺さずに生かしてくれたという理由であなたは許すだろうか。

人間が動物を殺すのがダメなら、肉食動物が他の動物を殺すことは何故よいのか。人間もただのお猿さんだが、チンパンジーが他の猿を食い殺すのはよくてなぜ人間は許されないのか、仮に他の肉食動物も許されないというなら、彼らはどう生きればいいのか。「肉食動物はほかに手段がないし、それがいけないことだと自覚できないから仕方がないが、人間はそうではない」と主張するベジタリアンもいるが、これは「肉を食らうことは良くない」ということが正しい前提で出される根拠であり、トートロジーである。

 

ふう・・・。軽く書きだしただけでもキリがない。

こうした批判に対し一部のベジタリアンは「仮に植物が痛みを感じるとしても、植物生産の方が畜産より環境負荷が少ないのでベジタリアンが理想的だ」などの反論で応戦してくる。確かに一理ある。家畜に食わせるための穀物を育てるなら、その穀物を人間の食事にした方が効率がいい(あくまでカロリーベースであり、実際にうまく回る仕組みかは置いておく)。しかし、それは「動物を殺したり食べたりすることがいいことかどうか」という問題を倫理からエネルギー効率の話にすり替えた論法であり、素直に賛同できない。第一、それが理由なら、動物を殺すことが残酷であるかどうかは関係ないのだから、少量なら肉を食って全く問題ないことになる。

長くなるので結論を述べる。ベジタリアンになることは、動物倫理の最終解決にはなりえない。愛誤の中にベジタリアンがいたところで、その人の言動を正当化するものではない。

 

問題は結論ではなく思考回路
ここまで読んで誤解されたくないのだが、愛誤が主張することが全て間違い、愛誤反対派が全面的に正しい、動物はブチ殺しても全然OKと言うつもりは一切ない。

僕も犬や猫は大好きだ。野良猫や猫の放し飼いの問題を頭ではわかっていても、道で猫に会えば可愛いと思う。先に紹介したアライグマだって、顔だけ見れば本当に愛らしい。気性が荒いから決してできないだろうが、できるならモフモフしたい。

アライグマについて突っ込んだ話をすれば、外来種駆除というのは実は微妙な問題だ。日本の生態系を守るため駆除するというのは一般的な生態系の観点から考えれば至極真っ当に聞こえる。しかし、どこからが外来種でどこまでが在来種なのか。生態系の保全というが、そもそも生態系は一定ではない。台風か海流か地殻変動か、はたまた人間が原因か。ある生物がそれまでいなかった場所にやってきて、生存競争の末にそこに適応し、その場所に元からいた動物は一部絶滅するが、一部生き残り、あるいは変化に合わせて進化していく。それはずっと起きてきた自然の変化だ。「もとからあった自然」などと言うが、アマゾンの熱帯雨林もアフリカのサバンナも、伐採やコンクリートジャングルより遥か以前に人間の影響を受けている。「アライグマは外来種だけど可愛いから許す」が愛誤なら、「アライグマは外来種だから絶対悪!皆殺しで当然!何も悪くない!」も、別の教義をもつ宗教と言わざるを得ない。「原生自然教・日本支部」と言ったところか。

僕が言いたいのはこういうことだ。いわゆる“外来種”を殺処分することも逆に解放することも、どちらも可能性としてあり得る選択肢でどっちをとるかはケースバイケースだが、その選択肢に至るまでに、外来種問題の複雑さやその種がどれほどその地に定着しているかなど様々な要因を考慮したのか、それとも「アライグマ可愛い!動物殺すの残酷!」という短絡的な考えしかしなかったのかという、思考回路の違いが大事なのだ。別の例を出せば、「イルカは頭がいい」とか「イルカは神聖な動物で人間の友だ」という主張を全面否定しても、全く別の、もっとまともな理由から「イルカ漁を禁止にしよう」という結論に至ることは十分にあり得るわけだ。

動物愛護が悪いとは思わないし、救いたいという気持ちも分かる。しかし、考え方がずれている人間にやらせれば良からぬ結果を招く。あくまでイメージだが、愛誤の大半は「動物と話せる女」とかいうテレビの企画を観て平気で涙腺を崩壊させるような人間(動物の認知や言語などの複雑な問題を冷静に考えられない輩)だと思う。そんな人間たちに、生き物と関わる活動を簡単に任せるべきではない。

答えが見えないすぐに問題を解決させることはできない。少なくとも僕の力では無理だ。それでも、とんでもない勘違いしている人間を批判し、複雑なものに向き合ってもらうよう人々を促すことは僕にもできると思っている。

 

【Writer Profile】


自称サメ社会学者Ricky

1992年東京都葛飾区生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。アメリカ合衆国ポートランド州立大学へ留学。2016年から現在の肩書を使って活動。社会人として働きながら、サメや環境問題などについて情報発信を行なっている。水族館ボランティアとしても活動。主な発信分野はサメの生態、水産業、動物倫理、進化生物学など。

Youtubeでの動画配信や、第3回ソーシャルドリームコンテスト、もうやん文京などプレゼン・レクチャーイベントで登壇。今後、書籍の出版など活動の幅を広げていく予定。

 

 

メールでのお問い合わせ、質問などはコチラ!
shark.sociology.ricky@gmail.com

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です