児玉千明議員の狩猟写真投稿は何が問題なのか? 批判側に潜むアンポンタンと動物倫理の微妙な問題

猫の放し飼い問題、外来種駆除の是非、シカの餌付け・・・。オリンピックの聖火のごとく燃え続けるTwitterの生き物界隈に、またしてもよく燃える着火剤が投下された。

福井県高浜町議員である児玉千明さんが自身のSNSに投稿した写真および投稿内容が物議を醸している。狩猟で捕らえられたと思しき動物の生皮をはがされた姿の前で白目を剥いたり笑顔を見せている姿およびその投稿のおどけたようなコメントが、「命を軽視してる」、「普通ではない」、「猟奇的だ」、「議員として不適切」などなどの批判を巻き起こしている。

具体的な批判の内容はTwitterのハッシュタグ#児玉千明で調べればいくらでも見つかるが、嘘か本当か「県庁に電話する」などと吠えるアカウントがいたり、杉本彩なる人物(よく知らんが女優らしい)が辞職を求める要望書を送るなど、ことがだいぶ大きくなっているように見える。

今回はこの件について色々述べるつもりだが、端的に僕の意見を表明するなら以下の通りだ。

投稿に問題がなかったとは言わない。しかし、攻撃的に批判している人間の一部は相当に頭が悪いし、かなり微妙な問題が潜んでいるので、議員を絶対悪のように扱うのは間違っている。

以下に、論点別に僕の考えを詳細に述べる。僕は児玉議員を完全擁護するつもりはないし、だからと言って批判が全部正しいと思わないので、どちらの意見の人にも読んでほしい。

 

目次:
【投稿内容と本記事の論点】
【動物殺しを批判する前に】
【SNSに投稿するのが悪いのか】
【変顔が問題なのか】
【まとめ】


【投稿内容と本記事の論点】
まずは児玉千明議員について。この騒ぎが広まってから、それに関連した記事の検索順位を一気に上げたグーグルのSEOに関心しつつ、今回の件に関係ないページで軽く調べた。

児玉議員は美容師として働いたのちに実家に戻り、野生動物による農林業被害や後継者不足などの問題を知る。その後狩猟の講習会に参加するなどして学び、猟師の資格を得る。実家の美容室を手伝いつつ猟師として活動した彼女は、その後町議員選に出馬して無所属で当選。狩猟を行っていることから「狩りガール」としても注目されてきた。

こんな感じのプロフィールだそうだ。

で、問題の写真は批判側が散々まき散らしているので探すのに苦労はしないはず。皮をむかれて肉塊と化した動物を前に白目を剥いた変顔をしたり、腹を裂かれてぶら下げられたクマと笑顔で映っている児玉議員の写真は、確かに動物愛護団体が喜ぶものではない。

全部の批判や擁護を扱うとキリがないので、ここでは以下を扱う。多少無理やりだが本件に関する沢山の批判は以下のように分類できると思う。

①動物を殺すのは許せないからSNSにあげようがあげまいが批判するけど、あがっているから攻撃の的にしてやる。

②動物を殺すのはいいとして、その死体をSNSにアップするのはダメ。

③狩猟の写真をアップするのはいいが、白目向いたり笑顔で撮るのはヤバい。

実際には、①が理由だけど児玉議員をより悪者にするために②や③を織り交ぜている批判も数多くあるだろう。また、①〜③でもなく、「匿名の陰に隠れて他人を叩き同意見の人から共感されることでしか自尊心を満たさない可哀想な人間が動物倫理など関係なくピーチクパーチク言っているだけ」という④のカテゴリーも必要かもしれない。しかし、批判の真意なんてウソ発見器でもない限り分からないし、ここでそう決めつけて蔑むのはフェアじゃない。

また、児玉議員が本件以外でも変顔やふざけた投稿をしていたことや、彼女の動物関連以外の政治的主張については、僕は批判も擁護もしない。

それでは①、②、③と順番に扱っていこう。

 

【動物殺しを批判する前に】
ここは①に関連する部分である。

批判側がこれを読んでいたらまず思い浮かべて欲しいのは、今日のランチに、あるいはディナーに何を食べたのかだ。肉汁滴るハンバーグ?マクドナルドのハンバーガー?ご飯に会う焼き魚?

忘れてしまっているのか忘れたいだけなのかは知らないが、これらは全て動物の死体を加工してできている。そう、僕らは都会に生きていても残酷な行為とされる動物殺しに支えられて生きている。直接手を下していないだけで、僕たちは動物殺しの恩恵を受けているのだ。ちなみに、魚を「動物」と呼ばない謎の風習があるが、魚は動物界に分類される生物たちである。

狩猟の成果に対して誹謗中傷する連中が全員ヴィーガン(完全菜食主義者)ならまだ筋が通る。しかし、そうではない。以前も別の記事で紹介したが、批判側の中には「これだけ食糧に溢れているのだからわざわざ殺す必要はない」という謎理論を展開する輩がいる。今回の件でも「自分で殺す必要がないのに」的な発言をしている人がいた。

 

どこで何を間違えればこの思考に至るのか・・・。このアカウントの主は中学生を自称しているので、それが事実なら学んでいる途中かもしれないしあまり責め立てるのも酷な気がするが、僕の友人の生き物好きの中高生と比較してしまうと人間も含む生き物への理解があまりにもお粗末だ。

もちろん、狩猟と食料生産には異なる点がある。しかし、普段自分は便利快適な生活を送り、誰かが殺してご丁寧に調味料と保存料をつけてくれた動物の肉片にありついておきながら、自らの手で動物殺しをする人を批判する。これほどまでに滑稽なことがあり得ようか。少なくとも、彼女が大好きな犬猫の餌には動物の死体が使われている。

ベジタリアンでありながら、「自らが殺した動物に限り肉を食べる」という取り組みを行った環境ジャーナリストのルイーズ・グレイさんは自身の著作『動物を殺して食べる』(原題:The Ethical Carnivore)においてこう述べている。

“もし肉を食べるなら、たとえそれが少量であっても、それを提供してくれた人を蔑むのではなく、支援すべきだ”(p130)

「私は児玉千明の獲ってきた動物の肉など食べていない」などという屁理屈を述べるオタンコナスはこの世にいないと信じたい・・・。いや、愛誤ならあり得る。なので一応補足するが、僕が言いたいのそういうことではなく、「動物殺しの恩恵をほぼ毎日享受している分際で偉そうに動物殺しを野蛮だのサイコパスなどほざくな」ということである。

①はこれだけで片付く問題だと思うのでこれ以上は述べない。次に進む。ちなみに、「動物殺しの恩恵をあまり受けていないヴィーガンなら批判していいのか?」という点は、別の機会に扱わせてほしい。

 

【SNSに投稿するのが悪いのか】
では、狩猟そのもの、生き物を殺す行為は仕方のない生業の一部だとして、その成果、具体的に言えば動物の死体をSNSにアップするのはいいのか?という問題がある。これは先ほどの②である。ただこれは、「死体の横で変顔」ということで③もセットな問題だが、そこは無理やり切り取って②の論点だけ扱わせて欲しい。

この批判の大半は「不愉快なもの・残酷なものを見せるな」という理由から来るのだと思う。

まず思いつく反論としては、「嫌なら見なければいい」というもので、実際にホリエモンさんもこれをツイートしていた。

ぶっちゃけこれで片づけてもいいが、少しだけ掘る。

端的に述べれば、世の中の価値観はかなり多様化して複雑になっているので、不愉快に感じる人間がいるから禁止や排除をするというのは社会のやり方としてあまり適切ではない。「私(たち)の価値観を尊重しろ!」であらゆるクレームが通ってしまう。また、今回の件とはあまり関係ないが、ある一定の価値観に基づいて一部の表現を禁止をすることは、不愉快を取り除くという名目で表現の自由が国家に侵害される危険につながる。さらに言えば、戦争の悲惨さ、芸術におけるヌードなど、人が不愉快に感じる可能性があるかもしれないが世に広まり検証されるべきコンテンツも存在する(後述する理由で、僕は狩猟や屠殺もここに含まれると思っている)。

なので、グロテスクな写真、エロティックなコンテンツ、暴力的表現などは、排除ではなくて事前告知やゾーニングで対処するのが理にかなっている。

今回はFacebookというあらゆるユーザーがあらゆる目的で使っているツールでの投稿なので事前告知は難しいが、そもそもSNSの利用は国民の義務ではないし、仮に使わなければならない事情があっても児玉議員のフォローを外すか無視すればいい。動物の死体を見た、子供が見てしまったなどの理由で批判するなら、積極的に拡散している議員批判側の方がむしろ悪くないだろうか?

「嫌なら見なければいい」の一言で片付く問題を以上のように紐解いてきた。次に進む。

 

次に考えられる批判が「ステーキや寿司(切り刻まれた動物の死体)の前での記念写真をSNSに投稿している奴なんていくらでもいるだろ」というものだ。似たものとしては、「釣った魚を手にもってる写真は良くて、なんでクマの死体がダメなのか?」がある。

これは微妙な問題だと僕も思うので、これで批判する人を簡単にバカ扱いできない。

これを僕は人格化・物格化と呼んでいるが、理論上(主に生物学の理論上)同一視できるものでも、個人的価値観や思い込みによって尊厳や道徳的扱いに値する存在であるかどうかが分かれるという現象だ。そうした判断が正しいかどうかを抜きにして、そうしたことは実際に起こる。

わかりやすい例を出せば、政治的な理由なしに反捕鯨する人々にとって、クジラは尊厳に値する存在である。徹底したヴィーガニズムは恐らく全ての動物が道徳的扱いに値する存在であるとしているが、植物や菌類はその範疇ではない。

人格化・物格化の理論は僕が作った仮説でまだまだ穴があるものだとは思うが、この土台にのせて考えると、今回の児玉千明議員の件は、人々が人格化しやすい動物(クマ、哺乳類)の死体だから不快感や批判を呼んだというのは大きい。

念のため確認しておくが、これは批判している側が正しいことを必ずしも意味しない。僕は「尊厳に値する」という言葉を使ったが、これはそうやって人が考えるという意味で、絶対的な価値尺度として尊厳なるものが存在し、それが動物にも当てはまるなどと考えるのは行き過ぎだ。SNSに写真が投稿されたことに対し「不愉快だから見たくない」とは別に「熊の立場を考えろ」、「さらされる熊が可哀想」という主張を展開する人もいたが、クマがホモ・サピエンスの情報網で自身の死体を見られるということに(仮に生きていたら)どのような心理的反応を示すのかは定かではない。

ちなみに、偉そうにここまで色々書いているが、僕だって種や個体によって感じ方の差があり、人格化するもの、物格化に近い扱いをしてしまうものと分かれる。ゴキブリを殺した時よりもネズミを殺した時の方が罪悪感は感じた。僕は犬の肉を食べることができるが、実家にいる愛犬を食べることはできない。

実家の犬。たまたまだが、よくクマに似ているといわれる。

先ほども述べた通りこれは微妙な問題なので、「不愉快に感じるな」とは言えない。料理も切り刻まれた死体だが、同じようにステーキの写真投稿を批判しろとは言いにくい。

しかし、それでも僕は思う。自分が食べているものが元々動物であったこと、高級寿司屋のマグロの握りもママの愛情たっぷりお弁当も動物の死体が使われていること、そもそもあなた方が守りたいとか可愛いと言っている動物たちも他の魅力的な動物を殺したりその資源を奪っているということ、自然で生きるってそういうこと…。こうしたことを多くの人が理解していれば、例え今回の死体写真がショッキングに写っても、ここまでの批判にはならなかったのではないだろうか。そう考えずにはいられない。

選挙ウォッチャーを名乗るチダイズムという方は、note記事の中で戦争カメラマンの写真を例に出して、今回のような動物の死体や屠殺の様子などは “本来ならそんなグロい写真を見たくないのだけれど、これが現実であることを受け止めるために覚悟をもって見る” ものだとみなしている(チダイズムさんの記事はコチラ。これは現代社会なら多数派の意見だろうし、だからこそこういうトピックは多少慎重に扱う必要があるのは僕も同意できる。

しかし、空気・水・その他多くの生態系サービスの恩恵を受けて生きているにもかかわらず、いちいち動物の死体を見るのに覚悟が必要なくらい自然と身体的にも精神的にも切り離された僕たちの生活もどうなんだとも思ってしまう。

自分の料理が動物の屍の成れの果てであることを思うと飯が食えなくなるという人が多いと思うが、僕はその事実を知っていてほしい。「嫌ならヴィーガンになれ」が暴論だとしても、自分の食べ物がほかの生き物だともっと自覚する方が、自然のありがたみも厳しさも感じられる生き方ではないだろうか。

 

【変顔が問題なのか】
では最後の論点、変顔したりふざけたコメントを書くのは良いのか?という③に移る。これに関しては「まともな生き物好き」と僕が勝手に呼んでいる人からも批判があった。

白目をむいた変顔、腹を裂かれたクマの写真に「熊さんのオイニー!(興奮)」とコメントをつけている児玉議員。

これに関しては、「個人の自由だが、賢い選択ではなかった」と言わざるを得ない。

狩猟者の方に怒られないように大慌てで付け加えると、「常に神妙な顔をしていろ」とか「葬式みたいな雰囲気で過ごせ」みたいなことを言いたいのではない。僕だって気持ちは分かるつもりでございます。

哺乳動物の解体を行ったことがないが、サメはたまに扱う。腹を開いて内臓を調べ、べちょべちょの体液や血にまみれて皮をはがし、可食部の肉を集めて料理する。切り落とした頭の肉をカッターで削いで骨標本を作っていく。慣れてはきたが大変な作業だ。達成したときに「フー!」と一息ついたり、きれいに処理できたときに達成感のような喜びを味わうこともある。白目をむいたことはないが、自然と笑顔になっていたかもしれない。

ちなみにこの児玉議員の一件について、面白い記事を見つけた。哺乳動物の解体経験者と思しき方が書いた記事だ。詳細は省くが、件の児玉議員の写真に写る熊はかなり丁寧に処理されていて、しかもここからさらに大変な処理が続くそうだ(記事の全文はコチラ)。

この方の記事の信憑性は僕の知識では分かりかねるが、なるほど。たしかに「命の軽視」なるものをしている人がここまで見事に大型動物の内臓を処理できるかと言われれば、確かに疑問である(そもそも批判側の大半が「命の軽視」とやらを明確にできていない気がすることには細かく突っ込まない)。

それでも僕は二つの理由で児玉議員の投稿を完全擁護はできない。一つは完全に個人的な好みで、テイストが好きではない。そしてもう一つは議員の目的達成にとって適切ではないからだ。

個人的な好みだが、僕は動物の死を扱うときは、笑顔になったりちょっとエンタメ要素をいれるのはいいとして、あまりふざけ過ぎないほうがいいと思う。「笑顔はOKで白目はダメ」という単純な話でもないし、まして「動物の霊に敬意を」なんてオカルト的な理由ではない。どこに線引きするのか基準もない。正直、なんとなくだ。同意してもらおうとは思わない。狩猟者の方には違った考え方の人もいるだろう。

植物を育てようとした際に誤って溺死させてしまったダンゴムシ、意図せずにとはいえ薬殺という苦しみの多い方法で殺めてしまったネズミ、外の海を知ることなく母胎の中で死んでしまったアブラツノザメの赤ちゃんたち・・・。この子たちを思い浮かべると、そんな気持ちになるだけだ。

体内から発見されたアブラツノザメの胎児

もう一つの理由について。福井新聞オンラインの記事(記事はコチラ)によれば “残酷、きたないなどの鳥獣処理の悪いイメージを払拭するのが目的だった” と児玉議員は主張されている。しかし、そうであるなら今回の投稿は適切ではない。

炎上した後なので後出しジャンケンになってしまっているのは承知だが、あの文面・あの変顔で投稿すればどうなるのか予想はできたはずだ。「鳥獣処理の悪いイメージ」が存在するのを知っていればなおさらである。鳥類・哺乳類の死体に対して感情的な人間たちの主張が正しいかどうかに一切関係なく、そうした人間が多く存在することは事実であり、狩猟のイメージアップを狙うのであればその前提をもとに動くべきだ。発信をやめる必要はないが、発信の仕方には注意すべきだと思う。先ほどの狩猟経験者と思しき方の記事に載っているような知識を事前に知らされていなければ、今回の投稿で感情的になる人がでるのは仕方がない。

例えば、「残酷に見えるかもしれませんが~」とか、「殺すのはかわいそうに見えますが~」とか前置きをしたうえで、狩猟の意義、残酷に見える作業の意味、成果物がどのように役立つのかなどを真面目に、しかし前向きな文面で紹介する方が良かったのではないか。

もちろん、それでも批判するのが愛誤が愛誤たる所以なので炎上した可能性はあるが、そうした内容ならもっと多くの人が前向きに応援してくれて、炎上を機に自分の理解者を増やせたかもしれない。

狩猟者の中には児玉議員の行為は普通であり全く悪くないという風に弁護する人もいて、実際そうなのかもしれない。しかし、狩猟者として普通かどうかと、それが狩猟者以外に受け入れられるかは別問題だ。一般大多数に受け入れられないから狩猟者がダメという頭の悪い多数決には賛成しないが、「狩猟の何がわかる!」と反撃するだけでは「鳥獣処理の悪いイメージ」を変えるのは難しいだろう。

 

【まとめ】
今回の炎上騒ぎには他にも「いじめの構造」とか「一般人ならいいとして議員がやっていいのか」などなどほかの論点もあるだろうが、これ以上はキリがないので締めくくる。最後に触れたように今回の投稿は完全擁護できるものではないが、批判側には明らかなアンポンタンもいるし、動物倫理や自然とつながりに関して微妙な問題が隠れているというのを分かってもらえると嬉しい。

ちなみに、僕はサメの死体や内臓その他の写真をSNSやHPにアップしているが、そのことでトラブルになったことはあまりない。変な輩にケチ付けられることはあるが、たいていサメや魚関連以外だ。

魚について愛誤がうるさくないのはサメに関する活動をしている身としては好都合だが、同じ動物なのにこんなに扱いや反応が違うことにはやはり違和感を覚える。この辺の倫理観が日本でどう変わるのか、今後も追っていこうと思う。

 

 

 

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